竹本筑後掾肖像
義太夫節の開祖である竹本義太夫(筑後掾)を描いている。絵師、制作年代ともに未詳。竹本義太夫は慶安四年(1651)に生まれ、正徳四年(1714)に64歳で没した。大坂の井上播磨掾の高弟清水理兵衛に入門し、京都の宇治加賀掾の一座にも出演、雌伏の時を経て貞享元年(1684)に大坂道頓堀の竹本座を創設した。元禄11年(1698)正月以前に受領(名誉称号として朝廷から国名官名の名乗りを許される)して、竹本筑後掾と名乗るが、本作はそれ以降の姿であろうと推察されている。宝永元年(1704)冬に大病を克服して剃髪したとする後年の説(『増補浄瑠璃大系図』)もあるが、宝永二年の『用明天皇職人鑑』の正本挿絵には髷のある筑後掾の姿が描かれており、剃髪時期は未詳。筑後掾一周忌追善の『豊年秋の田』正本に掲載された肖像には剃髪姿で「法名釈道喜」とある。いずれにしても剃髪姿は晩年の印象であろうかとも思われる。
義太夫の肖像を描く画幅は、早稲田大学演劇博物館、大妻女子大学図書館、大阪歴史博物館に、それぞれ異なる姿を描くものが収蔵されている。それらの中でも本作は、朗々たる大音で知られた義太夫の迫力ある風貌をもっともよく伝えるものと評価されている。
白扇を構えた語り姿は、他の絵像にも共通する。語る本を置いている台が、見台というにはあまりに簡便な作りで、九枚笹の定紋はついているものの、舞台で出語りする際に用いたものとは考えにくい。京都で義太夫がその一座に属していたこともある宇治加賀掾については、京都国立博物館に似顔を模した語り姿の木彫像があり、その見台と比しても簡便といえる。なお、加賀掾木像では、見台の上の床本も正確な本文を記したものが備わるが、本作では詞章は記されておらず白紙となっている。肖像を模写した人物の興味がそこにはなかったというべきか、もともと記されていなかったかは分からない。
本作は「鳥川庵」所蔵のものを「応呼堂笑山」が模写した旨が裏面に記されている。また、豊竹麓太夫旧蔵のものが安政五年に三代目竹本長門太夫の手に渡り、明治二十一年(1888)に至って四代目長門太夫を介して五代目竹本弥太夫に譲られた旨が巻柱に記されている。五代目弥太夫の次男が浄瑠璃研究者でもある木谷蓬吟であるが、その著『浄瑠璃研究書』等にも、「鳥川庵」「応呼堂笑山」が何者であるかの言及はなく、今に至るも未詳とせざるを得ない。本作は、木谷蓬吟の旧蔵にかかる浄瑠璃関係資料百六十余点からなる「木谷文庫」の内の一品として、本学駒場図書館の所蔵となっている。
(早稲田大学演劇博物館副館長 児玉竜一)