資料の解説

「東京大学法学部研究室図書室法制史資料室所蔵コレクション」で公開している主な資料をご紹介します。


『甲州法度之次第』

 甲斐国(現在の山梨県)に本拠を持った戦国大名武田晴信(信玄)が、 その支配する領国を統治するために制定した分国法。家臣に対する種々の規律を主内容とし、 全体的に隣国駿河の今川氏の「今川かな目録」の強い影響が認められる。
「甲州法度之次第」と呼ばれるものには大別して26箇条本と55箇条(プラス追加2箇条)本の二種の伝本があり、 前者が天文16(1547)年6月に成立した原型、それを基に増補改訂を経て55箇条に整理された後、 天文23(1554)年5月にさらに2箇条が追加されて成立したのが後者、と考えられている。 『甲陽軍鑑』に採録されるなどして世上に多く流布したのは後者の系統だが、 この系統に属する諸本にはなお種々の異同があり、 流布本が成立するまでにはさらに若干の経緯があったと推測されるものの、詳細は明らかではない。
法制史資料室所蔵本は流布本系の代表的な一本で、冒頭の表題部分に円形重郭龍文の朱印判一顆が捺され、 末尾には「天正八庚辰年二月十七日書之」とある。冒頭の印判は信玄が天文12(1543)年以降用い、 天正元(1573)年の信玄死後は嗣子勝頼が天正10(1582)年の武田氏滅亡に至るまで襲用したものである。 従って該本は武田勝頼のもとで作成されたものと認められ、当時通用の「法度」を伝える最善本と評価される。 佐藤進一・池内義資・百瀬今朝雄編『中世法制史料集 第三巻 武家家法I』(岩波書店 1965年) 所収「甲州法度之次第」の底本として用いられるなど、学界においても「甲州法度之次第」の標準的なテクストとして認知されている。 鳥の子紙27枚を継ぎ合わせ、裏打ちを施して成巻され、第一紙裏に「東京帝国大學圖書印」一顆が捺されている。

(大学院法学政治学研究科 教授 新田 一郎)

 


『御前落居記録』及び『御前落居奉書』

 室町幕府第六代将軍足利義教のもとで行われた政務上の案件処理手続である「御前沙汰」の記録史料。「御前沙汰」においては、通常二人一組で案件を担当する奉行人から、1案件処理の原案を将軍に上程して裁可を仰ぎ、2将軍の裁可を得たものについては「奉行人奉書」と呼ばれる文書を作成して関係者に執達する。1の手続を記録したものが『御前落居記録』(以下「記録」)、2の文書の発給手控えとして残されたものが『御前落居奉書』(以下「奉書」)である。現代に伝存するのはいずれも永享2年(1430)から同4年(1432)のもので、法制史資料室所蔵の「記録」は義教自身が花押(サイン)を据えて裁可を与えた原本、「奉書」は遅くとも文明年間(1469-1487)までに筆写された写本と考えられている。「記録」には72件、「奉書」には118件が記録されている。両者の内容は必ずしも相対応するものではなく、いずれにせよこの時期の「御前沙汰」の全貌が記録されているわけではないが、中期室町幕府の「裁判」を研究する上での最重要の史料である。桑山浩然校訂『室町幕府引付史料集成 上巻』(近藤出版社1980)に翻刻収録されている。

(大学院法学政治学研究科 教授 新田 一郎)

 


『大坂町中江出寺請状諸宗寺々五人組判形帳』

 大坂町中(現在の大阪市主部)及び近郊の寺院の判形(印鑑影)を、宗派別さらに「五人組」と呼ぶ寺院グループごとに集録した台帳。元禄8年(1695)に大坂町奉行所において作成され管下の町々に頒布されて、寺院から発行される証文類の確認の必要に備えたものと思われる。冊末には、宗旨手形や家数証文の書式雛型、奉行所から町々に宛てられた触書などの関係書類が収められている。法制史資料室所蔵本は南農人町壱丁目に下付され町年寄の手許において管理使用されていたものだが、同タイトルで淡路町弐丁目に伝存したものが大阪府立図書館に所蔵されており、「おおさかeコレクション」*で閲覧できるため比較対照に好便である。
*https://da.library.pref.osaka.jp/content/detail/01-0001695(最終確認2024年1月12日)
 頒布後に寺の改称・改印があった場合にはその都度注記修正が施されて明治初年に至っており、情報を更新しながら170余年にわたり実務の用に供されていたことが窺える。注記修正に際して木版刷りの紙片を貼付した場合があり、寺院からの届出を受けた奉行所から各町に一斉配布されたのであろう。法制史資料室所蔵本と大阪府立図書館所蔵本の注記修正箇所を比較すると若干の出入や精粗の差があり、自町と関係の薄い改印情報は脱落する場合があったものかと思われる。両者比較対照することによって、近世中後期の大坂における寺院のプレゼンスの一端を、立体的に窺うことができるであろう。

(大学院法学政治学研究科 教授 新田 一郎)

 


『英国大使館文書』

 本資料群の主部をなすのは、幕末から明治初年にかけて、日本の外交担当者や政府関係者から駐日英国公使ないしその属僚に送られた文書の日本語原本である(「幕府及明治政府側よりイギリス公使館宛公文書綴」)。英国大使館に保管されていたものが昭和26年(1952)に廃棄処分とされ古紙業者に売り払われたものの、幸いにも滅失を免れて本室と早稲田大学図書館とに分蔵されることになった(但し一部は所在不明)。文書を10数通ずつ接ぎ合わせて蛇腹様に折り畳み、杉板を表紙に用いた法帖仕立てで、本室に131帖、早稲田大学図書館に80帖を蔵する。本室所蔵分の冒頭には文化~天保の「薪水給与令」「異国船打払令」の写しが置かれ、以下安政6年(1859)から明治6年(1873)に及ぶ外交文書が綴られている。また、本室には、安政5年(1858)から明治41年(1908)に至る日英間の外交文書の写しを綴った和装本都合64冊を蔵する。法帖仕立ての文書と同時に英国大使館から出たもので、英国側から日本側に宛てた書翰類の訳文や条約文などを収めたもの(「イギリス公使館より幕府及明治政府宛文書写」57冊)と、日本側から英国側に宛てた書翰類を抜粋したもの(「日本側より英国公使館宛公示文書抜粋」7冊)から成る。これらを併せ見ることによって、幕末から明治に至る日英外交関係の諸局面の具体相を垣間見、その推移を辿ることができるであろう。なお、早稲田大学所蔵分を含めた簡略な目録が、洞富雄・柴田光彦「英国大使館旧蔵・外国事務老中書翰(一)」(『早稲田大学図書館紀要』1号、1959年)に「早大図書館/東大法学部収蔵・英国大使館旧蔵・日英外交文書目録」として付載されている。

(大学院法学政治学研究科 教授 新田 一郎)

 


『周防国與田保古文書』

 中世東大寺領をめぐる相論(訴訟)の関係文書を継ぎ紙に書写し、案文(控え)として成巻したもので、別に掲げる「美濃国茜部庄古文書」と併せ都合二巻が一函に収められている。法学部法制史講座の初代教授を務めた宮崎道三郎の旧蔵書で、各巻の端裏下部には「宮崎蔵書」朱印が捺されている。『御前落居記録』『御前落居奉書』などとともに、関東大震災で壊滅的な被害を蒙った法制史関係蔵書の再建のために寄贈された史料典籍群の一部である。
 周防国玖珂郡與田保(現在の山口県柳井市付近)は周防国衙領だが、鎌倉時代の周防国は東大寺造営料国とされたため、與田保は東大寺領として扱われた。本資料は、與田保公文職に関する建保5年(1217)から正安3年(1301)に至る17点の文書案文を書き継いだもので、鎌倉後期の相論に際して関係文書を写し整えたものと考えられる。本資料の原拠文書の所在は知られないが、かつて東大寺に伝存したものであろう。
 なお、法制史資料室には、これら二巻の他にも、東大寺に由来する文書若干を蔵する。東大寺伝来文書には明治になって諸事情から寺外に流出したものが少なくなく、これらはその例に数えられる。

(大学院法学政治学研究科 教授 新田 一郎)

 


『美濃国茜部庄古文書』

 中世東大寺領をめぐる相論(訴訟)の関係文書を継ぎ紙に書写し、案文(控え)として成巻したもので、別に掲げる「周防国與田保古文書」と併せ都合二巻が一函に収められている。法学部法制史講座の初代教授を務めた宮崎道三郎の旧蔵書で、各巻の端裏下部には「宮崎蔵書」朱印が捺されている。『御前落居記録』『御前落居奉書』などとともに、関東大震災で壊滅的な被害を蒙った法制史関係蔵書の再建のために寄贈された史料典籍群の一部である。
 美濃国厚見郡茜部庄(現在の岐阜市付近)は、9世紀に成立した東大寺領荘園。鎌倉後期の地頭長井氏との相論で知られるが、本資料は平安後期、長久元年(1040)から永久4年(1116)に至る、公事(年貢以外に課される様々な負担)の免除に関する先例を示す16点の文書を写し継いだものである。ここに収められたものと同内容の案文が正倉院現蔵「東南院文書」及び内閣文庫現蔵「美濃国古文書」中に散在しており、本資料は、かつて東大寺に伝存したそれらの案文(ないしはその原拠文書)に拠って作成されたものであろう。
 なお、法制史資料室には、これら二巻の他にも、東大寺に由来する文書若干を蔵する。東大寺伝来文書には明治になって諸事情から寺外に流出したものが少なくなく、これらはその例に数えられる。

(大学院法学政治学研究科 教授 新田 一郎)

 


『遠山家記録残闕』

 江戸幕府の旗本遠山家関連の記録で、主として幕末の景晋・景元・景纂の三代にわたる日記や先例記録の類からなる。景晋(1764-1837)は昌平坂学問所の学問吟味で優秀な成績をあげ、目付・長崎奉行・勘定奉行などを歴任した能吏。その子景元(1793-1855)は北町奉行・大目付・南町奉行などを務めた名奉行として知られ、「遠山の金さん」のモデルに擬せられる。景纂(1817-1855)は景元の子で徒頭・西丸目付などを務めた。それぞれの職務に関連して作成されたであろう記録類の多くは諸方に散逸したが、その一部が古書肆の手を経て昭和11年に東京帝国大学法学部の所蔵に帰した。各冊の表紙に記されたタイトルとナンバーによって列挙すると、①『歩兵校尉日記』2冊、②『文化日記』8冊、③『天末弘始録』6冊、④『御触書』2冊、⑤『法令絲綸録』2冊、⑥『御仕置例』2冊、⑦『金銀出入』1冊、⑧『御仕置附書附』1冊、⑨『御指図振一覧』1冊、⑩『天保九至十二公事吟味物目録』1冊、⑪『御徒頭勤方』1冊、⑫『弘化元年中御番所御入用請帳』1冊、⑬『焼捨訴状取計書抜』1冊、⑭『静定公履歴』1冊、⑮『訴答状』1冊、⑯『雑纂』2冊の都合33冊となる。いずれも原本だが、表紙は伝来・整理の過程で加えられたものであり、これらのタイトルや付番の順序は、遠山家記録の原状を精確に伝えるものではない。
 ①は徒頭在任中の景纂の日記(弘化4-嘉永元年[1847-48])。②は文化2年(1805)から文政2年(1819)に及ぶ景晋の日記だが、内表紙には(第1冊から順に)「御目付日記五」、「御目付日記八」、「(表題欠損)」、「長崎奉行日記十二」、「長崎奉行日記十三」、「長崎奉行日記十四」、「(表題欠損)」、「御作事奉行 日光御霊屋向見分 同御修復奉行 日記十七」とあって、現存分以外に10冊程度が在ったであろうことが知られる。③は天保末年から弘化初年にかけて、時期的に見て景元の代の記録を後にまとめたものと思われるが、各冊の内表紙に「天末弘始録前篇上」「天末弘始録壱」「天末弘始録参」「天末弘始録四」「続天末弘始録五」「(欠損)弘始録六」とあって、現存する6冊以外になお何冊かが在ったとみられる。④以下は主に町奉行関係の参照資料を編んだものだが、⑭は景晋が天明から寛政年間の自身の履歴を享和元年に整理したもので、徒頭から目付に異動するに際して作成されたものであろう。
 『文化日記』のうち「長崎奉行日記」3冊分は、荒木裕行・戸森麻衣子・藤田覚編『長崎奉行遠山景晋日記』(清文堂出版2005)として翻刻刊行されている。

(大学院法学政治学研究科 教授 新田 一郎)

 


『豊田友直日記』

 江戸時代末期に飛騨郡代や江戸城二の丸留守居などを務めた旗本豊田友直(1805-1870)の日記。豊田友直は旗本久須美家に生まれたが豊田家の養子となり、家督継承後しばらく評定所に勤務した後、天保10年(1839)に飛騨郡代に任ぜられて高山に赴任した。5年半ほどにわたる郡代在任中には飢餓対策・物価対策などに努め、弘化2年(1845)に二の丸留守居に転じて江戸に帰任、以後は諸役を歴任したが元治元年に病気を理由に隠居、明治3年(1870)に死去した。この間に記した日記のうち、天保5-6年(1834-35)の『信総旅中日記』1冊、天保11年(1840)から弘化2年に至る『飛騨在勤中日記』5冊、江戸帰府後の弘化2年から明治3年に至る『日記』13冊、都合19冊の自筆原本が、法制史資料室に所蔵されている。
 このうち『信総旅中日記』は、評定所留役在任中の天保5年から6年にかけて用水争論の処理のため信濃に派遣され、帰路利根川を経て下総北部布佐に到った旅の記録で、スケッチや詩文を交えて旅程沿道の情景を伝えている。『飛騨在勤中日記』天保11年4月11日条に「中山道者去ル午未両年遠国御用ニ而往返都合三ヶ度通行勝地名区之風光山岳江河之唱称及ひ宿駅之盛衰里数等其節之日記江委しく記置故事不替儀者再ひ不記」とある「其節之日記」がこれにあたる。『飛騨在勤中日記』は、郡代としての業務に関わる行政・民政関係の記録を中心としつつ、支配所一帯の地誌・風土・民俗など広範囲にわたる観察が書き留められており、本資料の中核をなし、幕末の地方社会の状況を伝える史料として貴重なものである。江戸帰府の後も元治元年の隠居を挟んで日記は続き、最後の記事は10月13日、死の直前まで書き継がれたと思しい。
 飛騨郡代在勤中の分については、西沢淳男編『飛騨郡代豊田友直在勤日記』1、2(岩田書院2019-2020)として翻刻刊行されている。

(大学院法学政治学研究科 教授 新田 一郎)

 


『法令集』

 主として近世前期の徳川家・江戸幕府の法令類を集めたもの。『国書総目録』には同タイトルの書を幾つか掲げるが、冊数が大きく異なるなど、相互の関係は明らかでない。法制史資料室所蔵本の成立の時期や経緯など明らかでないが、各冊に川越藩主松平斉典(なりつね、1797-1850)が用いた「松平氏蔵書印」が捺されており。その蔵書のうちに在ったことが知られる。斉典は好学の君主として知られ、本書は或いは斉典の意向のもと川越松平家において編まれたものかもしれない。
 1・2巻には家康の三河・駿河時代の関連文書、豊臣秀吉に関するもの等を収めるが、とくに家康関係の古いものは正文とは認められないものも多い。3巻からは江戸幕府が開かれてからの法令を多く収めるが、これらは他の法令集にも収載され知られたものも多く、武家諸法度や禁中並公家諸法度など著名なものも含まれる。以下、例えば4巻には元和5年(1619)の福島正則改易(減転封)や上洛時の条目、5巻には寛永10年(1633)の軍役令、武家諸法度(寛永令)、6巻には寛永飢饉関連の諸法令などとなっている。最後の20巻は、貞享2年(1685)の鶴姫(徳川綱吉長女)の紀州家入輿の記事で終わっている。
 本書の元になった文書・法令・史料がどのように収集され伝来したものか、他の法令集などを参照して作成されたのかも未詳。典拠不明なものや内容に疑義を残すものもあり、「近世前期の法制史料」として活用するためには、類本との比較対照など慎重な検討を要するが、そうした検討の材料として用いることによって、近世前期の幕府法の解明への手がかりとなりうるであろう。また、近世前期の法令類に関する情報が近世後期からどのように振り返られていたのかを例示する史料としても、本書は重要な意味を持つ。

(大学院法学政治学研究科 教授 新田 一郎)

 


『外地掛御用留』

 幕末のいわゆる「開国」に伴い、開港地には外国公館や外国人居留地が設定されることになり、そのために生じた種々の案件を処理すべく、各地に所管の官庁が設置された。横浜には安政6年(1859)に神奈川奉行が置かれ、これが慶應4年(明治元、1868)3月に横浜裁判所、同年4月に神奈川裁判所、6月には神奈川府、9月に神奈川県と改称されることになる。本資料は、安政6年の開港以降明治初年に至る間に横浜近辺の外国人居留地に関わってこれらの官において遣り取りされた資料の写しを綴り合わせたものであり、「御用留」7冊、「書翰留」1冊の計8冊からなる。
 各冊の表紙に「外地掛」との記載があるが、神奈川府から神奈川県への改称の後、明治4年2月にそれまでの「居留地掛」を「取締掛」と「外地掛」に分割しており、この「外地掛」における執務上の参考資料として、関連の記録を神奈川奉行時代にまで遡って編んだものと考えられる。「御用留」7冊は、第1冊から順に①安政6年から文久年間、②元治元年(1864)、③④慶應元年(1865)、⑤慶應2年、⑥慶應3年、⑦慶應4年のものをおさめる。なお、⑤にはもと別の冊子であったものを合綴した形跡があり、後半部には明治5年ないし6年のものが含まれている。また、「書翰留」表紙には「第弐号」との朱書があり、現存するのは編纂されたものの一部にとどまるとみられる。
 内容は、外国公館用地の選定や関連施設の設営、外国人居留地の管理などに関わって、幕府の指示命令や各種の手続書類、諸国外交関係者との遣り取りなど多岐にわたり、諸施設の用地選定に関連した絵図面なども含まれている。幕末から明治初年にかけての開港地の状況を伝える貴重な史料である。

(大学院法学政治学研究科 教授 新田 一郎)

 


『御成敗式目関係古写本群』

『御成敗式目』および関連の写本類。『御成敗式目』は、貞永元年(1232)に時の執権北条泰時の主導のもと、鎌倉幕府に従う御家人たちに成敗(事案の判断・処分)の方針を示すべく編まれたテクストである。「中世武家法の基本法典」という説明がしばしば与えられるように、後続の「武家」によって規範として仰がれたことから、数多くの写本が残され、また鎌倉後期以降には儒学者らによる注釈書も著された。さらに中世後期から近世には木版刷りで印刷刊行されて初学者の読み書き教本として用いられることもあった。本学総合図書館に穂積陳重が収集した写本・版本のコレクションを蔵するが、法制史資料室及び法学部図書室所蔵の写本・刊本はささやかながらこれを補完するものである。

 

「御成敗式目」(甲:2:1429):清原家が伝え家説を以て訓点を加えた「清家本」を底本として享禄2年(1529)に小槻伊治によって刊行された印本(いわゆる「享禄本」)を、天正18年(1590)に祐圓が書写したもの。51箇条と起請文、小槻伊治の跋文と祐圓の書写奥書を載せる。その後に異筆で「寛永八念十月日光臺院内泉順□」とあって、寛永8年(1631)に高野山に伝えられたものかと思われる。

「御成敗式目」(甲:2:1870):冒頭に「鳥養宗慶筆」、巻末には「天正拾年三月二日写之畢」との書写奥書があり、天正10年(1582)の書写と知られる。鳥養(鳥飼とも)宗慶は摂津国の人。尊円流の流れを汲む飯尾流の書を学び、後に一派を立てて鳥飼流の祖となる。幕末の古筆家神田道伴による極札(鑑定書)が添えられている。

「御成敗式目」(甲:2:3348):末尾書写奥書に「彦六左衛門常房」として花押が据えられており、また「任御所望仕候/隠岐入道殿」とあることから、「隠岐入道」の依頼によって飯尾常房が文安元年(1444)に書写したものと考えられる。飯尾常房は室町幕府奉行人飯尾氏の一族で細川家家臣、尊円流の書を学び飯尾流の開祖とされる。古筆了仲・了意および神田道伴による極札(鑑定書)が添えられている。

「式目抄」(甲:2:1346):『御成敗式目』に語句の注釈を施した式目注釈書。式目追加34箇条に加え是円房道昭による正和元年(1312)の跋文を載せることから「是円抄系」と呼ばれる系統の一本である。奥書によれば弘治2年(1556)の成立、同じ系統に属する「芦雪本御成敗式目抄」が天文22年(1553)の奥書を持ち時期的にも近い。両本を比較すると注釈本文に共通するところが多いが細注には異なる箇所が少なくなく、共通の祖本から分岐したものと見られ、「芦雪本」の成立過程を考える材料ともなる。

「式目之追加」(甲:2:4144):奥書によれば天文3年(1534)写。『御成敗式目』写本には、51箇条に「追うて書き加え」られた「追加」34箇条を併せ載せるものが少なくないが、本史料はその「追加」部分を独立した一本として書写したものである。「追加」に続けて是円房跋文を載せており、是円抄系の式目注釈書から派生したものであろう。その後に式目の起草に参与した清原教隆ら6人の名を掲げて説明を加えるくだりは「御成敗式目栄意注」とほぼ同文であり、注釈の系統を考える際の参考になるかもしれない。巻頭に「宝玲文庫」の蔵書印があり、英人収集家フランク・ホーレーの手を経たものと知られる。

「新御式目」(甲:2:1100):弘安7年「新御式目」38箇条以下都合144箇条の「追加」を載せる。内容は『史籍集覧』『續群書類従』底本に用いられた内閣文庫蔵本と同じだが、字句に若干の差異がある。関東大震災の後に寄贈された宮崎道三郎旧蔵書のうち。題箋に「称意館蔵本」とあり、京都の医家吉田意庵の蔵書に由来するものと見られるが、称意館の蔵書印がなく、蔵本の転写本であろう(宮崎旧蔵書には他にも由来を同じくすると見られるものがある)。ところどころに、宮崎のものと覚しき朱字書き込みがある。

(大学院法学政治学研究科 教授 新田 一郎)

 


『華士卒族関係史料群』

明治時代の華族・士族・卒といった族制に関する史料。明治維新によって、従来の身分制が改編され、大まかにいえば、旧制下の公卿・諸侯が華族、一般の武士や地下官人などが士族、末端の家臣や公家武家奉公人の一部などは卒として編制された。これらの称を帯びる者は、君主の手足となり国家統治の役割を分かち担う「臣」として、統治の客体である「民」とは区別されて中央政府ないし府県の指揮監督に服し、様々な事柄について所轄官庁への願出・届出を規定されていた。ここに掲げた史料は、明治前半期に、華士族や卒から所轄の官庁へ提出され受理された届書の原本綴である。いずれも断片的なものだが、「臣」管理の仕組みや手続きの一端を窺わせる史料である。

 

「華族諸届」(甲:2:3795):華族から宮内省へ提出された諸届を綴じた記録。1冊は明治10年、宮内卿徳大寺実則に宛てたもので表紙に「華族掛」とあり、もう1冊は明治22年、宮内大臣土方久元に宛てたもので表紙に「爵位局」とある。明治9年に宮内省庶務課に設置された華族掛がこの種の届出の窓口となった。その後、明治15年に華族局が置かれ、これが明治21年に爵位局と改称された。それぞれの時期に窓口となった部局において保存編綴され伝存したものであろう。届書の内容は旅行出立・帰京や忌服・忌明けなどが主。

「宮内省届書 明治十二年十月分」(甲:2:2556):明治12年10月に華族から宮内卿徳大寺実則に宛てて出された諸届を編綴したもの。「華族諸届」2冊の中間の時期にあたる。届書の内容は「華族諸届」とほぼ同様だが、華族会館華族部長局副督部長東久邇通禧や各部長らの印・花押が据えられており、これらの届書は華族部長局を通して提出されたものと認められる。簿冊表紙に「第三課」とあるのは、華族会館第三課の意であろう。華族部長局は明治11年に華族会館に設置されて華族の統制にあたったが、明治15年、宮内庁に置かれた華族局にその任を譲った。

「壬申従五月至八月 諸願留 京都府士族觸頭局」(甲:2:2172):明治初年の京都府においては、士族として貫属せしめられた旧地下官人を管理するために觸頭を置いて士族を分属せしめ、指示命令の伝達や願・届の取次などに当たらしめた。本史料は、この制のもとで觸頭を通じて提出された願書の綴である。願出の内容によっては觸頭に宛てた「親類添願」が添付され、それに親類と並んで「閭長」が署判を据えている。これは、明治4年9月に、觸頭管下の士族を11閭に分けてそれぞれに閭長を置き、1閭を4比に分けてそれぞれに比長を置いて管理の便を図る制が敷かれたことによる(羽賀祥二「明治維新と地下官人――士族「閭」・「比」制度について――」『王権と社会―朝廷官人・真継家文書の世界』名古屋大学附属図書館2007、参照)。本史料は、この時期の京都独特の制度である閭長に関する史料として貴重なものである。

「明治四年辛未 卒諸願 京都府貫属掛」(甲:2:2173):京都府に貫属せしめられた卒から政府役人に宛てられた諸願書の明治4年2月分原本綴。出願者には市政局や警固方、二条城番などに属する下吏が多いが、一部に「元卒」や「士族」からの願書も含まれている。また、士族編制において閭・比の制が敷かれる以前に「閭長」の称が用いられた例があり、士族に先行し卒について「閭」が置かれた可能性を窺わせるなど、この時期の京都における卒編制についての情報を伝える。なお、本史料に綴られた願書においても「卒族」の語がまま用いられているが、公式には「卒」で「卒族」は俗称。卒制は明治5年に廃止され、旧卒は士族もしくは平民に編入された。

(大学院法学政治学研究科 教授 新田 一郎)

 


『高札類』

中世から近代初期にかけて、統治者から被治者に命令・布告・教誡の類を伝達する媒体として、木板に墨書した高札が用いられ、町辻や橋詰など人々の多く行き交う場所に掲示された。近世には各地に掲示のための高札場が設けられ、明治新政府もその発足時には政権交代の告知と人民教誡のため各地に高札を掲げた。近代国家にとって、法令の類を国民に告知し周知徹底を図ることは重要な課題であり、そのために当初は高札が襲用されたわけだが、やがて官報による周知の擬制へと置き換わる。

法制史資料室に所蔵する高札類は、A近世の高札類とB近代初頭の高札類とに大別される。Aには元和2年(1616)の切支丹札、正徳元年(1711)の切支丹札・火付札及び忠孝札写、享保6年(1721)の鉄砲禁令、明和7年(1770)の徒党札、天保14年(1843)の浪人札があり、Bには慶應4年(明治元=1868)の五榜の掲示(第一札~第五札)とそれに続く阿片煙草禁制がある。いずれも全国各地に同内容で掲示されたものである。

 

(大学院法学政治学研究科 教授 新田 一郎)